長右衛門窯の四代目、
上出兼太郎の工場案内レポート
上出長右衛門窯に新しいデザインを取り入れて、現在の基盤を作り、九谷焼産業の振興にも尽力した四代目、現会長(81)かく語りき。
コンピューターとそろばんみたいなもんやね
磁器という焼物が地球上に現れたのは約七百年前、元の時代です。けど元の焼物は中国にほとんど残っていない。どこへ行ったかといえばトルコ。オスマントルコが全盛だった時代に全部買い占めて行ったわけです。だからトルコのイスタンブール、ウスクダラ、あそこのトプカプサライ博物館(Topkapı Sarayı)に元時代の焼物が膨大にあります。なぜそんなに膨大にあるかというと、オスマントルコは焼物を胡椒と物々交換したんです。東洋には胡椒はなかったんですよ。
だけど、なんと言っても焼物は中国が本場。だから焼物は英語でチャイナといいます。漆器はジャパン。漆器はヨーロッパ にはないです。乾燥地では漆はひび割れるから。
陶器は光を通しませんが磁器は光を通します。お手元の茶碗の薄いところを透かしてみて下さい。透けるでしょう?磁器は千三百度まで焼くことで、釉薬がボディの中心まで浸透して美しい磁器になります。だけど、生地が弱くなって変形してしまうことがあります。陶器は反対に変形しない。釉薬塗っていないから変形しない。その違いがあります。短所、長所がありますよ。磁器は簡単に言うと鋼鉄やね。硬度計で測ると非常に強い。けど、割れやすく脆いんです。陶器は銅みたいなもんや、硬度計で測ると柔らかいけども、曲がったりしたり、少々落としたりしても割れん。簡単にいうとそんな差がある。コンピューターとそろばんみたいなもんやね。
焼き物にしたって昔から比べたらグレード低いですよ。
磁器は有田(佐賀)が最初です。三十年の違いで九谷に来て、その次は京都、一番遅いのが岐阜です。そういっても産地で一番大きいのは岐阜です。陶器はかつてプラスチック、ペットボトルみたいなものでした。国鉄のお茶の容れ物なんかはみな益子焼で消耗品でした。知ってる?知ってる人は歳が判る(笑)。
磁器というやつは非常に高価なものでした。だから必ずスポンサーがいるんです。石川県には九谷焼の他にも、輪島漆器、山中漆器があって、その前には金沢漆器があった。これは非常にいいものです。加賀藩の前田さんの嫁入りのお道具は全部金沢漆器でした。だけど、前田さんというスポンサーがなくなったら、金沢漆器もなくなってしまった。まあ戦後少しやりだしたけどね。 江戸漆器も全く同じですよ。徳川さんというスポンサーがなくなったら、なくなってしまった。輪島漆器や山中漆器は比較的新しいです。だから前田さんの調度品には輪島漆器はありません。お嫁道具には高蒔絵の文箱とか硯箱とかね、茶棚とかね、必ず持って行きました。名古屋の徳川美術館に沢山あります。焼物もそう、有田は鍋島、九谷は前田。最初から良いものをつくれ、ちゅう命令です。他の産地はみんな土焼から来て、だんだん良いものになって行ったけど、九谷焼は最初から良いものつくれ。お金には事欠かんからって。
質問者:スポンサーは、昔は前田家で、今は買ってくれるお客さんがスポンサー代わりだと思うのですが、明治の頃とか大正ってのはサポートしてくれる人は特別いたりしたのですか?
それはね、例えば岩崎弥太郎さんとか、それから伊藤博文さんとか、ああいう人たちは自分の屋敷の中にお抱えの工芸師を置いて、ろくろや窯を置いて焼物を作った。そういう人は明治時代には、たくさんおりました。戦後はそんな人はおりません。戦前、ようするに財閥の解体からですね。財閥がおってもええような一面もあったわけですよ。今はそんなことありません。だから焼物にしたって昔から比べたらグレード低いですよ。戦後人件費が一番高くなりました。焼物で一番かかるのは人件費です。だから昔のものには敵いませんよ。
鼻の毛を長くして、アホのふりしてたわけです。
前田さんは税金取るのが非常に上手だった。百二十万石。それは大きいものですよ。百姓から年貢治めさせて、120万石やもんね。今の時代じゃあそうはいかない。前田さんと高知県の山内家が一番税金の取り方が上手だっ た。今で言ったらメーデーで反対せな(笑)。そういう一面もあります。なかなか面白い、そういう古い話ね。徳川家はだいたい八百万石。そしたら大きいでしょう百二十万石。その次に大きいのは伊達です、伊達が六十二万石か。次が島津四十五万石か。その三つがずっと洞観していたわけや。徳川家はそれをなんとかして潰そう、潰そうって思っているからね。で前田さんのことも潰そうとしているけど、なかなか潰す理由がみつからない。前田藩三代目の利常さんという人はわざと鼻の毛を長くして、アホのふりしてとぼけていた。つまり謀反などできる人物ではないと欺いていたわけです。
でも、利常さんは九谷焼や加賀友禅、漆器、金箔という産業を作り、国宝級の久隅守景という日本の絵描きさんとか、それから俵屋宗達とか、ああいう人をみんな引っ張ってきとるわけや、青木木米もひっぱってきとる。そんだけお金に余裕があった。利常さんは加賀文化をつくった人というわけです。百二十万石、大きいのよ。
古九谷は国宝になっていない
何か質問があったら質問して下さいよ。まだ面白い話がいっぱいありますよ
古九谷というのはね、世界の色絵で一番値段が高いです。骨董価値が。三百五十年前、わずか四十五年ももたないのや。ぽつんと亡くなって、なんで無くなったのかはっきりしませんけど、私の考えでは九谷、加賀の前田であんなに立派な焼き物ができるなんておかしいと。あれは中国、明からの密輸入であると、理由をつけて要するに前田藩を潰そうと、密輸すると違反やからね。それを察して、すぱっと辞めたらしい、ということになっている。だから古九谷のデザインとか形式は明の時代と似ています。だから密貿易だろうと疑われた。
実は日本の大名で、外国の焼物を輸入したのは前田さんが第一号です。買い物奉行という肩書きを持って買い物しをする為に長崎へ行っていた。いまでも前田育徳会にありますけど、白鳥というかサギというか白鳥の形をしたオランダ製、デルフトの焼物を買った。それもあって前田の奴は中国から密貿易しているんじゃないかと疑いが掛けられた、だから古九谷はなくなったんだろうと思う。
だから幻の焼き物です。三百五十年前です。小さなは皿でも安いもので百五十万するでしょ。大きなお皿でだいたい五千万から一億。
しかしおかしいね。日本製の焼物で、国宝になっているのは野々村仁清だけです。中国の品物で国宝になっているのは何点かありますよ。日本で出来たもので国宝になっているのは野々村仁清だけです。京都です。県立美術館にも一つあります。キジのね。
野々村仁清の焼物がたくさんあるのが熱海のMOA美術館。それから箱根美術館にもあります。古九谷には国宝はないです。重要文化財もない。不思議なくらい。一番時期が古い柿右衛門にもない。野々村仁清だけです。なんでそうなったのか私は審査員じゃないから知りませんけど。中国にはありますよ。飛青の花瓶(飛青磁花生)や生掛けかかった天目の茶碗とか、国宝になっている。でも日本製の磁器で国宝になってるものはありません。
ろくろつかってね、抹茶碗をつくろうと思ったら三ヶ月かけたらつくれます。簡単です。ただし抹茶碗はお茶の心がいります。お茶の心がないのに、抹茶碗つくってもええのつくれない。磁器の茶碗のように同じ物を均一に作ろう思うたら3、4年はかかります。均一につくるのは非常に難しい。抹茶碗は均一じゃなくても良い、でもお茶の心がいる。 現在のお茶の心ってね、本当にお茶の動作だけを覚えると言う感覚です。
便利さだけを追求していくような世の中
九谷焼がなくなって百年後の1800年文化文政のころに、九谷焼をもういっぺんつくりたいという前田さんの意向で、京都から1810年ごろに青木木米という優秀な絵師を呼んできて金沢の春日山という山で窯作って焼き物をつくらせたんです。命令ですよ。やれっちゅう。青木木米は一年だけおった。その後、彼は弟子の本多貞吉を残していった。その本多貞吉が現代の九谷焼の祖先になりましたね。いっぺんなくなったものがまた復興させた。本多貞吉は石川でなくなっているから、立派な墓あります。青木木米はね、何でもやった人。焼き物もやるしね、画業もやるしね。山水の軸があります。それは国宝になっております。
前田の殿様の三代利常の奥さんつうのはね、珠姫といって、徳川二代秀忠の娘さんです。家康の孫。三歳のときにきた。その菩提寺があの、福光屋の前にある天徳院です。三代利常という人は非常に徳川に気を使った。そういうそのね、利常という人は大変にできたひとらしい。おれは会ったこと無いけども(笑)。
そういう立派なスポンサーがおったから、九谷焼があり、友禅があるわけですよ。しかし現代はダメ。スーパーからお刺身を買おうてきて、とりあえずそのまま、食卓に出しているようじゃ、ちょっと茶碗は売れんのやで(笑)。そのね、だんだん考え方がアメリカ式になって、 便利さを追求して、教育もそうでしょ便利さだけや。だから人間性がないわけですよ。アメリカなんて建国して二百三十年しか経っとらん。新しくて、文化はない。だからアメリカに焼物はないですよ。せいぜいアメリカにあるのが病院で使う真っ白けな食器や、ただ使う目的で作っている食器です。けど、美を追究した食器はないですね。しかし世界の財宝、美術品は一番たくさんもっている。日本のは、鎧やら、日本刀やら、刀の鍔。鍔なら一番たくさんもっているやろ。お金に物言って全部買おうていくさかい。みなさんそういう考え方になっちゃった。便利だけ。便利さだけを追求していくような世の中。
だからね、もっと深みのある…簾戸とか蚊帳とか、夏でも涼しい感じがするものも、いまの生活では使わない。夏はクーラーやさかいね。簾戸いれても家が涼しくならないし、蚊帳もつらん。蚊も昔ほどおらんようになったしな。農薬で。松任の俳人で千代女って知ってますか?あの人は旦那さんが早くに死んで独身になったやろ。“起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな” 今まで、二人で寝ていたのに、一人で寝る蚊帳の広さを詠ったものですが、いまは蚊帳つっている家はない。風情がないじゃない。まあ、そういう時代やから、反発してもしょうがない。流れがそうなっているんや。みんな便利さだけを追求するアメリカ的な考え方。ま、そういう時代になったんだから、その時代にあんまり…棹さすより、棹ささんと流れていった方が得かもしれんね。
*2010年5月の茶碗まつり会期中に行われた工場見学より
*写真:蓮沼昌宏
四代上出長右衛門 上出兼太郎
昭和 四年 石川県能美郡に生をうける
昭和二十四年 高岡工専(富山大学工学部前身)応用化学科卒業
昭和二十七年 金沢美術工芸大学陶磁器科卒業
工学博士 小沢卯三郎先生と共同研究を行い「九谷焼杯土の基礎研究」と題し論文を発表
昭和二十八年 現代美術展に初入選
昭和三十二年 食器新作展にて石川県知事賞受賞
昭和四十七年 創造美術会陶芸部初代部長に推挙される
昭和四十九年 東大名誉教授 三上次男先生と共にヨーロッパ陶磁器研究に八カ国を訪問
昭和五十九年 全国伝統的工芸品展にて通産省局長賞を受賞
昭和 六十年 創造美術展にて朝日新聞社賞を受賞
平成 二年 石川県九谷焼陶磁器商工業共同組合連合会理事長に推挙される
平成 三年 日本煎茶工芸協会理事に推挙される
平成 五年 永年の功績により通産大臣表彰を拝受
平成 八年 藍綬褒章を拝受
平成 十年 寺井町より寺井賞を拝受
平成 十五年 勲五等雙光旭日章を拝受